質問 |
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| 質問者:ling_xiang | 昔の中国の形は現在と違って「τ」の形をしているのは何故ですか? | |
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困り度:
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昔の中国の王朝、漢・隋・唐・明の国土は現在の中華人民共和国と違って西北部が尻尾のように細長く伸びていて、丁度ギリシャ文字の「τ」の様な形をしています。現在のような岐阜県の形になったのは清時代からのようです。 昔の中国が現在と違いこんな形をしていたのは何故でしょうか?理由を詳しく御存知の方はどなたか教えて下さい。 |
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質問投稿日時:08/04/17 07:18 質問番号:3954013 |
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| 回答者:jayoosan | これは歴史カテゴリの質問かもしれないですね。 元や明よりももっと前、唐あたりまでの時代は、歴史書をよむと、いかに中国が北から来る民族に手を焼いていたかがわかります。 特に顕著なのは、匈奴、鮮卑、突厥などの、いまのモンゴルあたりより北に位置していた騎馬民族に手をやいています。 実際万里の長城は、それら攻撃をしかけてくる騎馬民族をふせぐような形で、西へと伸びていきました。 また西北のほうは、昔は遊牧系の別民族の土地だったものの、国家の体をなしていないような地域(単に民族集団とかも)もあり、また現在中国の歴史(中国大陸上の歴史というべきか)に歴史書記載の漢字による名称のまま組みこまれているため、中国の領土としてえがかれています。もともとは西北のほうには、烏孫(wusun)、楼蘭、などテュルク系(トルコ系)もしくはモンゴル系の土地で、いわゆる漢民族とは別文化の土地でした。このあたりは、現在も新疆ウィグルとして、中国語がまったく話せないイスラム系の人がたくさんいます。(おもしろいのは、トルコ系もモンゴル系の言語も、日本語や朝鮮語と同じSOVの形をとることです) 遊牧系、テュルク系の集団のいた時代を中国に組み込まなければ、この西北は中国ではないのですが、国としての存在の記述が歴史書にとぼしかったり、早い時期から中国が文化的に進出して、現地の反乱を制圧したりしていたことで(現在のチベットのように)、中国の地図の中に取り込まれているのだと思います。 隋以降は歴史書に東北部の(朝鮮系と思われる)高句麗や朝鮮半島の新羅などとの衝突も、たくさんでてきます。 日本は聖徳太子の時代、隋の煬帝に「日出ところの天子〜」という失礼な国書を送り、煬帝の怒りを買ったものの、中国は日本へ僧を送るなど、その後も使者のやりとりが中国大陸と日本でつづきました。これは朝鮮半島や高句麗あたりとの緊張関係が常にあったため、東夷とも呼ばれ海の向こうでもあった国の倭までをも敵にまわすことは、国力や軍事力的にも余裕がなかったか、あるいは倭を中国側につけたかったためともいわれています。 その後日本は、軍事力と造船技術が高くなったのか、百済が滅亡する前の時代の百済や新羅の朝鮮半島軍事を引き受けています。軍隊のみ駐留していました(毎年その代価を徴収しており、支払いが滞ると、わざわざ日本から催促の使いを送っています。これは現在の在日米軍のような関係かもしれません。)そして、唐に対して、朝鮮半島の軍事的支配権を認めるよう、倭が交渉をした形跡がありますが、唐は認めませんでした。 ですので、その後百済滅亡のときの白村江の戦いは、単に百済を助けにいったというよりも、すでに軍事的に半島に駐留しており、新羅と唐に勝てば朝鮮半島の支配権を手にいれられると読んでいたため、確信的に戦いに参加した可能性があります。 この参戦の形は、秀吉の朝鮮半島出兵と、19世紀末に理由をつけて朝鮮半島に影響力を持っていった時代もふくめ、日本は常に朝鮮半島をはさんで、東アジアに影響力を持ちたいと考えていたようにも、私には見えます。 中国が描く、歴史地図(高句麗も、渤海国も吸収されてかかれていない) http://529634.cn/bbs/viewthread.php?tid=20752 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/04/19 11:37 回答番号:No.2 |
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| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |
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| 回答者:gingerrush | 哲学的な質問ですか? もし地政学的な質問であれば、歴代王朝変遷の間に大陸の形は変っていないと思うので、地図見て、どの地域を新たに取り込んだとか、どの地域は放棄したとか、歴史順に見ていけば今の疑問は解決すると思います(別の疑問が出て来ますが)。 国の「領土」とか「国境」とかいう概念は西洋から「近代国家」の概念が入ってきてからの話ですから、それまでは役人や軍隊派遣して税金を取って来られれば自分とこ、地元民や他の勢力に追い出されてしまえば他所のとこ、かなりファジーな話なので、中央アジアなんかでは点と線しか支配できてなくても面で表現される。「τ」の形を発見したその歴史地図みたいなもんも、参考にはなるけど、疑ってかかった方がいい。横線の伸び具合とか、尻尾の長さとか、そこにどの都市が含まれていて、周囲にはどんな勢力がいたか等々、隠れている事実が一杯ある。西北に線だけで細く延びてるなら、たぶんモンゴルエリアと青海・チベットエリアは面としては入っていないのでしょう。 最近は新しい研究成果に基づく本がたくさん出てて、関心持って読むとおもしろいです。 |
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| 種類:アドバイス どんな人:一般人 自信:参考意見 |
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回答日時:08/04/17 15:49 回答番号:No.1 |
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| この回答へのお礼 | この回答にお礼をつける(質問者のみ) |